1.14

昨日、感動があった。笑えるとか泣けるとかそんな一元的なものではなく文字通り感情を動かされたとしか言いようがない。そしてそのことを記録しないといけない思いに駆られた。頭の中は全くまとまっていないし、何を残したいのかさえよくわからないけれどとにかく記録する。時間が経ってしまえば薄れるし、良い文章を書こうとして思ってもいないことを散りばめてしまいそうだから。思いついたことの断片をただ記録してみる。
人の話や文章でここまで心を揺さぶられたのはいつ以来だろうか。そもそもそんな経験が過去にあったのだろうか。習慣で開いた個人ブログの内容に動悸がした。比喩でも大袈裟でもなく本当に心臓がドクンとした。個人の全く個人的な記録。僕には何の関係もない話。なのに出だしから最後まで僕は彼になっていた。彼の心情が描写された部分は同じように心がざわめいた。僕には何の損も得もない話なのに。もともと彼には並々ならぬ親近感は持っていた。彼との対話から得た情報を肥大化させ都合の良いように解釈し形成した彼の人格は僕そのものと言っていいほど一方的に自己と同一視していた。そして自己愛の強い僕はそんな(架空の)彼が大好きだ。だからなのだろうか。いや違う。彼が僕ではないことがその日のブログには記されているにも関わらずだ。それどころか彼と僕が決定的に違うことに気付かされたことに感動したのかもしれない。彼はここ最近でごく身近に生と死を見た。僕にはその経験はない。もちろんそれだけの違いだけではないだろうがそれは非常に大きな違いであることを気付かされた。
死の衝撃の大きさに驚いた。昔読んだSFに出てきた反物質爆弾を思い出す。人を一人消去った衝撃は1000キロ離れた何の関係もない人間にこんな駄文を書かせるのだ。
僕はこの先このブログのような文章が書けるのだろうかと思った。僕は文筆家でもないしそれを趣味としているわけでもないけど、単純にそう思った。嫉妬だろうか。人は誰でも一生に一冊は本を書ける、なんて耳にするけど今の僕が本を執筆したとしても進研ゼミの勧誘マンガ以下の薄っぺらさだろう。常に凪でありたい、と思い生きてきた結果こんな臆病で半アパシー人間になってしまったのだろうか。もちろん幸せであるにこしたことはない。痛いのはイヤだ。けれどもそれにとらわれすぎるあまり気付かなかったり見ないふりをしながら生きてきたんじゃないだろうか。反省か。明日には忘れているだろう。
通夜や葬儀についての話題のとき、極めてありきたりだが自分の葬儀にはどのくらい弔問に来てくれるのだろうか、と考える。人付き合いは得意ではないがそんなに苦手でもない。けれども携帯のメモリーはいつまでたっても増えない。子供の頃は苦手だった食べ物が大人になり大好物になった。でもそれと同じ数だけ大人になって苦手になった食べ物がある。人間関係も同じような感じだ。
深夜に帰宅しベッドに潜り携帯からそのブログを見ていた。一緒に住んでいる人はそれよりもだいぶ早くに眠りについたらしくいびきに合わせて布団が上下している。僕はこの人とずっと一緒にいたいと思った。
今日は朝早くから会社の命でセミナーに参加した。何度かこの種のものに参加したことはあるがどれも内容は変わらないと改めて思った。成功者の自慢話を聞くことに何の意味があるのだろうか。ホームレスの話のほうが何倍もためになるような気がする。むしろ金を払ってでも聞きたい。前夜と引き換えこんなにも何にも残らない話があることに驚く。感動が薄れていく。比べる僕がバカなのだろう。携帯で再びブログを読み返す。セミナー後同僚と別れて渋谷で下車。ハンズで封筒と便箋を買う。唯一短い年賀状をくれた地元の友人に返事を書くために。人が死ぬとハンズが儲かる、と思いつき笑う。